『フェイス・トゥ・フェイスと素早い「決断」の連続で、チャンスを逃さなかった
2003年10月半ば頃、出張先に伊藤忠商事の丹羽宇一郎社長(当時)から、
至急電話をくれないかと連絡が入った。
中国で、清涼飲料事業をやらないかという話だった。当時は01年にビールと
発泡酒の年間出荷量が初めて業界ナンバーワンになるという目標を達成した
直後で、次なる目標の軌道修正のために、第二次グループ中期経営計画(04
年〜06年の三カ年計画)を前倒しで策定していたところだった。
もとより中国市場には、1993年に杭州ビールの経営権を伊藤忠商事と共同
で取得して以来、ビールについては四社に出資し事業を展開している。
しかし清涼飲料水は、2000年から青島(チンタオ)ビールと飲料合弁事業を
細々とやっていた程度で、確かにもの足りなかった。丹羽さんからの提案は、
私にとって、まさに渡りに船の案件だった。
出張から戻って詳しく聞いてみると、康師傳控股有限公司(カンシーフコング
ーヨーシェンゴス)が外資との合弁会社設立を希望しており、年内には決着し
たいそうだという。
しかも、ほかにも交渉相手があるようだ。「もう後れを取っているのではない
か?」と聞いたところ、丹羽さんは「ギリギリのタイミングだから、飛び込んで、
直接合う以外ないだろう」と言う。
私自身、これまで「フェイス・トゥ・フェイス」を信条にやってきた。長く身を置い
た営業の現場でも、実際に当事者と腹を割って話し合うことで、決断を下してき
た。丹羽さんのアドバイスと自分の信条が一致した。
私たちは早くも10月末、天津にある、康師傳本部を訪れていた。先方のオー
ナーは四人兄弟で、長男の魏應州(ウエイインチヨウ)が代表者、四番目の末
弟がそのときの窓口役だった。
総勢7〜8人で一時間くらい話し合ったところ、魏さんが「ちょっと時間をくれ」
と席を立った。「こんな多人数では話がまとまらないから、意思決定者だけの
少人数で話し合おう」という提案を受け、魏さんと私と伊藤忠商事役員と通訳だ
けに切り替えた。
私は、「当社はいちばん最後に来たようだから、難しいかな」と思いつつも、当
社の方針や飲料事業の概要を詳しく説明し、翌日帰国した。 初の交渉はこの
ような経緯だった。
すると、その直後に先方から、「11月3日に日本に行くから1日空けてほしい」
という連絡が入った。こちらは最初の交渉時に、ある程度出資額を提示している。
今度はその逆提案を持ってくるという。どうやら当社と金額交渉に入ろうという
ことらしかった。ところが交渉に入ってみると、当方が提示した額より30億〜40
億円上回っている。しかも即答を求められた。
時間がないという。先方と当方の提示案を挟んで、シビアな金額交渉となった。
私はエラいこっちゃなと思った。しかし、今まさに事業構造を変えようという中期
計画の矢先で、海外での清涼飲料事業強化はその方向に沿った案件だ。
ぜひやりたい。私はその場で「やりましょう」と即答。最終的には380億円出資
することとなった。
丹羽さんの「会うのがいちばん」という言葉が、決断を後押しした
03年12月末に調印し、04年初めに公表。その4月にスタートした合弁会社、
康師傳控股有限公司は、日本側持ち株会社が株式の50%を引き受け、その出
資比率は当社80%の伊藤忠商事20%。アナリストなどからは「出資金額が高
い」という意見もあった。
確かにそれまでの中国への投資は、累計総投資額でも230億〜240億円。
それをはるかに上回る金額だ。もしうまくいかなければすぐに辞任しなくてはと、
覚悟した。しかし、結果的には大成功だった。
05年度には売上高が前年比65%増、当期利益も8倍になり、アサヒビールの
連結最終利益に30億円くらい寄付する会社に成長した。常日頃から社員に「ス
ピードだ」と言っていた私だが、このときは、われながら本当に素早い決断の連
続だった。
先方は「まさにこんなに早くアサヒビールのトップが来るとは思わなかった。そ
れが気に入った」と言ってくれたそうだ。
「会うのがいちばん」と言った丹羽さんの力でもあった。何が”光明”だったかと
問われれば、伊藤忠商事をはじめとする関係先との信頼関係だろう。
そして、10年にわたる中国でのビール事業の経験から、財務や品質管理、
工場運営などへの技術協力のノウハウも、決断への後押しをしてくれたと思
っている。(アサヒビール会長兼CEO 池田弘一)』
(週刊ダイヤモンド編集部(編) 『トップの決断力』 《ダイヤモンド社》)

